更新日:2010,08,25,Wednesday 更新者:ezawa
今日は全くお仕事に関係ない久々のマンホールブログです。
まじめなビジネスマンの方はここから下は全くお仕事に関係ないので・・・・
お仕事の合間の休憩にどうぞ・・・
唯一の女性秘密諜報部員から情報提供が有りました・・・。
M県 I 市と報告がありました。
江戸時代に一生に一度の大旅行、旅人が伊勢神宮へ参拝する「おかげまいり」がデザインされています。
伊勢神宮は太陽を神格化した神、天照大御神天照大神(あまてらすおおみかみ・てんしょうだいじん)を奉っている神社です。(スミマセン大ざっぱで・・・。)
おかげまいりは、お蔭参り、お伊勢参りとも言われています。特に60年周期で江戸時代に起こった伊勢神宮への集団参詣を「おかげ年」と言いますが1867年の幕末におこった「ええじゃないか」はこの年には当たりません。
そういえば昔、「赤福」のCMで ♪「ええじゃないか ええじゃないか えじゃないか 伊勢の名物 赤福餅でえじゃないか♪」 ってCMソングが有りましたが、これはこのええじゃないか騒動の「世直しええじゃないか」や、「明治政府、開国ええじゃないか」などとかけてあって、土産は赤福でええじゃないか(いいですよね!!)ってことだと思います。
ちなみに「ええじゃないか」は1854年にはマシュー・ペリーによる日米和親条約締結、1958年にタウンゼント・ハリスと井伊直弼は日米修好通商条約を締結、経済的にも政治的にも、幕府は窮地に追い込まれる激動の時代になり、物価高騰、尊王攘夷運動の激化や一揆、打ちこわし等が起こった。これを収めるためのガス抜きという説もあるが・・・。
大衆文化の中には卑わいな「性の解放」を叫ぶ者もいた、と言うことを昔見た映画「ええじゃないか」のシーンにも有った・・・。
でも・・・・、世直しを訴える民衆運動であったと一般的には解釈されています。
そして1867年には大政奉還。政権交代どころではない激動の時代だったのです。
話がだいぶそれましたので・・・・、
伊勢神宮の外宮には産業の神様である豊受大御神が奉られていてこれを農民が参拝するのがお蔭参りのきっかけであるようです。
当時の庶民にとって、伊勢までの旅費は相当な負担でありました。そこで生み出されたのが「お伊勢講」という仕組みです。
「講」の所属者はお金を出し合い、それらを合計して代表者の旅費とする。誰が代表者になるかは「くじ引き」で決められる仕組みだが、当たった者は次回からくじを引く権利を失うため、「講」の所属者全員がいつかは当たるように配慮されていたようです。
くじ引きの結果、選ばれた者は「講」の代表者として伊勢へ旅立つことになります。旅の時期は、農閑期でした。
「講」の代表者は道中の安全のために二、三人程度の組で行くのが通常であったらしいです。
水戸黄門などを見ていても確かに旅は複数人数が多いと思って見ていましたが、テレビドラマでも時代考証が正確です。
どうでもいい情報として水戸黄門様と格さんと助さんの銅像?がJR水戸駅前に有ります・・・。どなたか情報提供お願いします。
また黄門様は本当は鎌倉までしか行っていないので、世直しのためお忍びでの旅をするというのはフィクションです・・・。でも大好きです黄門様・・・。小学生の頃毎日見てました。
もともとは幕末になって、講談師(氏名は不明)がこれらの伝記や十返舎一九作の『東海道中膝栗毛』などを参考にして『水戸黄門漫遊記』を創作したと考えられているので昭和のテレビドラマはまだまだ最近のものになります・・・。
「お伊勢講」が無かった地域では、周囲からの餞別(せんべつ)が旅行費の大半を占めていました。
旅立ちの者に餞別を渡すのはこの時代にはすでにあったらしいです。
参考文献はが大好きなウィキペディアです。
おかげまいりですが・・・・、出発にあたっては講の代表として行くので盛大な見送りの儀式が行われました。
当時、他藩の領地を通るために必要不可欠な通行手形の発行には厳しい制限がありましたが、伊勢神宮参詣を目的とする旅についてはほぼ無条件で通行手形を発行してもらえました。(この他にも、善光寺参詣や日光東照宮参詣など、寺社参詣目的の旅についてはおおむね通行手形の発行が認められていた。)
伊勢神宮参詣の名目で通行手形さえ発行してもらえば、実質的にはどの道を通ってどこへ旅をしてもあまり問題はなく、参詣をすませた後には京や大坂などの見物を楽しむ者も多かった。
多くの旅人が集まることによって最新情報の発信地になったお伊勢さんで、知識や技術、流行などを知り見聞を広げるための旅でもあった。
お蔭参りから帰ってきた者によって、最新のファッション(例:最新の織物の柄)や農具(例:新しい品種の農作物がもたらされる。箕に代わって、手動式風車でおこした風で籾を選別する唐箕が広まる)、音楽や芸能(伊勢音頭に起源を持つ歌舞が各地に広まる)が、実際の品物や口頭、紙に書いた旅の記録によって各地に伝わった。
このような風潮から、伊勢神宮参詣は多くの庶民にとって一生に一度とも言える大きな夢であった。
以上のことから「おかげまいり」は
「皆さんのおかげで行かせていただく」、や、「生きている間に行かせていただく」、「五穀豊穣への感謝の気持ち」など、全てに感謝をして伊勢神宮に参るということです。
も感謝の気持ちを大事にしていきたいと思います。
お~なんかキレイにまとまった!!
美しいマンホールが有りましたら是非ご連絡ください。取材に伺わせていただきます。
HPの問い合わせ先から普通にメールをください。件名には「日本マンホール研究会」宛と書いてください。
日本マンホール研究会は日本の美しい風景や歴史、地域に根ざした、美しいマンホールを研究しています。
まじめなビジネスマンの方はここから下は全くお仕事に関係ないので・・・・
お仕事の合間の休憩にどうぞ・・・
唯一の女性秘密諜報部員から情報提供が有りました・・・。
M県 I 市と報告がありました。
江戸時代に一生に一度の大旅行、旅人が伊勢神宮へ参拝する「おかげまいり」がデザインされています。
伊勢神宮は太陽を神格化した神、天照大御神天照大神(あまてらすおおみかみ・てんしょうだいじん)を奉っている神社です。(スミマセン大ざっぱで・・・。)
おかげまいりは、お蔭参り、お伊勢参りとも言われています。特に60年周期で江戸時代に起こった伊勢神宮への集団参詣を「おかげ年」と言いますが1867年の幕末におこった「ええじゃないか」はこの年には当たりません。
そういえば昔、「赤福」のCMで ♪「ええじゃないか ええじゃないか えじゃないか 伊勢の名物 赤福餅でえじゃないか♪」 ってCMソングが有りましたが、これはこのええじゃないか騒動の「世直しええじゃないか」や、「明治政府、開国ええじゃないか」などとかけてあって、土産は赤福でええじゃないか(いいですよね!!)ってことだと思います。
ちなみに「ええじゃないか」は1854年にはマシュー・ペリーによる日米和親条約締結、1958年にタウンゼント・ハリスと井伊直弼は日米修好通商条約を締結、経済的にも政治的にも、幕府は窮地に追い込まれる激動の時代になり、物価高騰、尊王攘夷運動の激化や一揆、打ちこわし等が起こった。これを収めるためのガス抜きという説もあるが・・・。
大衆文化の中には卑わいな「性の解放」を叫ぶ者もいた、と言うことを昔見た映画「ええじゃないか」のシーンにも有った・・・。
でも・・・・、世直しを訴える民衆運動であったと一般的には解釈されています。
そして1867年には大政奉還。政権交代どころではない激動の時代だったのです。
話がだいぶそれましたので・・・・、
伊勢神宮の外宮には産業の神様である豊受大御神が奉られていてこれを農民が参拝するのがお蔭参りのきっかけであるようです。
当時の庶民にとって、伊勢までの旅費は相当な負担でありました。そこで生み出されたのが「お伊勢講」という仕組みです。
「講」の所属者はお金を出し合い、それらを合計して代表者の旅費とする。誰が代表者になるかは「くじ引き」で決められる仕組みだが、当たった者は次回からくじを引く権利を失うため、「講」の所属者全員がいつかは当たるように配慮されていたようです。
くじ引きの結果、選ばれた者は「講」の代表者として伊勢へ旅立つことになります。旅の時期は、農閑期でした。
「講」の代表者は道中の安全のために二、三人程度の組で行くのが通常であったらしいです。
水戸黄門などを見ていても確かに旅は複数人数が多いと思って見ていましたが、テレビドラマでも時代考証が正確です。
どうでもいい情報として水戸黄門様と格さんと助さんの銅像?がJR水戸駅前に有ります・・・。どなたか情報提供お願いします。
また黄門様は本当は鎌倉までしか行っていないので、世直しのためお忍びでの旅をするというのはフィクションです・・・。でも大好きです黄門様・・・。小学生の頃毎日見てました。
もともとは幕末になって、講談師(氏名は不明)がこれらの伝記や十返舎一九作の『東海道中膝栗毛』などを参考にして『水戸黄門漫遊記』を創作したと考えられているので昭和のテレビドラマはまだまだ最近のものになります・・・。
「お伊勢講」が無かった地域では、周囲からの餞別(せんべつ)が旅行費の大半を占めていました。
旅立ちの者に餞別を渡すのはこの時代にはすでにあったらしいです。
参考文献はが大好きなウィキペディアです。
おかげまいりですが・・・・、出発にあたっては講の代表として行くので盛大な見送りの儀式が行われました。
当時、他藩の領地を通るために必要不可欠な通行手形の発行には厳しい制限がありましたが、伊勢神宮参詣を目的とする旅についてはほぼ無条件で通行手形を発行してもらえました。(この他にも、善光寺参詣や日光東照宮参詣など、寺社参詣目的の旅についてはおおむね通行手形の発行が認められていた。)
伊勢神宮参詣の名目で通行手形さえ発行してもらえば、実質的にはどの道を通ってどこへ旅をしてもあまり問題はなく、参詣をすませた後には京や大坂などの見物を楽しむ者も多かった。
多くの旅人が集まることによって最新情報の発信地になったお伊勢さんで、知識や技術、流行などを知り見聞を広げるための旅でもあった。
お蔭参りから帰ってきた者によって、最新のファッション(例:最新の織物の柄)や農具(例:新しい品種の農作物がもたらされる。箕に代わって、手動式風車でおこした風で籾を選別する唐箕が広まる)、音楽や芸能(伊勢音頭に起源を持つ歌舞が各地に広まる)が、実際の品物や口頭、紙に書いた旅の記録によって各地に伝わった。
このような風潮から、伊勢神宮参詣は多くの庶民にとって一生に一度とも言える大きな夢であった。
以上のことから「おかげまいり」は
「皆さんのおかげで行かせていただく」、や、「生きている間に行かせていただく」、「五穀豊穣への感謝の気持ち」など、全てに感謝をして伊勢神宮に参るということです。
も感謝の気持ちを大事にしていきたいと思います。
お~なんかキレイにまとまった!!
美しいマンホールが有りましたら是非ご連絡ください。取材に伺わせていただきます。
HPの問い合わせ先から普通にメールをください。件名には「日本マンホール研究会」宛と書いてください。
日本マンホール研究会は日本の美しい風景や歴史、地域に根ざした、美しいマンホールを研究しています。
| http://www.ezawajimuki.com/blog/index.php?e=204 |
| ブログ::出張はつらいよ | 12:32 PM |
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